ご存知の方もいるかと思いますが、僕は入社してから3年間はソフトウェア開発者でした。
それが1年半前から技術営業という職種に変更しました。
つまり技術者から営業になったわけですが、
最近悩んでいるのは「自分が思ったようにはなかなか売れない」こと。
ということで上司にアドバイスを仰ぐべく呑みに出かけました。
上司曰く、僕の足りないところは「ビジネスがどうやって成り立っているのか本質的な部分の理解が足りない」ということだそうだ。
これはどういうことか?
もう少し具体的な表現をするならば「お客様は何故買おうとしているのか、表面的な行動ではなくその背景にある心理的な部分の理解が足りない」ということらしい。
個人の買い物であれば、購買行動と個人的欲求は直接的に結びつくが
企業の買い物であれば、それを意思決定する人の購買行動と個人的欲求は結びつかない可能性がある。
また、意思決定者の独断や嗜好で購買できる場合はごく稀でもある。
例えば、生産性向上のため全社にグループウェアを展開するプロジェクトがあるとする。
僕らが売る製品が他社に比べて機能的に優れていて、IT担当者が非常に気に入ったとする。
だが、それを使うユーザーが使いこなせず、全社展開が失敗に終わったとする。
するとどうなるか?このIT担当者の企業での立場が悪くなる。
いくら製品が気に入ったとしても、自分の人生を棒に振るほどではないと思う人がほとんどじゃないだろうか。
ということは、どんなに優れた製品だとアピールしても
お客様にとってそれは購買要因のone of themであり、決め手にはなりえない。
けれども、僕は元技術者ということもあり、自分が売っている製品に愛着があることもあり
どうしたってその製品の良さを存分に伝えたいと思ってしまうし、お客様になんとかして理解してもらおうとする。
そして、優れた製品だと理解してもらえる=買ってもらえる、と錯覚してしまうのだ。
逆に、お客様に買ってもらえないと、その製品が否定されているようで、ひいては自分が否定されているような気になってしまう。
提案活動の初期段階では、要件ヒアリングのためお客様の声を良く聴くのだが、ある程度要件も洗い出しシステム構成案ができてくると、技術的なチャレンジを解くためにそれにかかりっきりになってしまい、本来のお客様の声を忘れてしまって、製品のアピールに終始してしまっている。
最近の自分の営業活動を振り返ってみると、まさにこのパターンに陥っていたんだと思う。
製品や技術にこだわりが強すぎると営業は難しい。
まだまだ営業にはなりきれていないことを実感した一夜でした。
2011年1月5日水曜日
Noblesse Oblige
前回のシャドープログラムのネタがまだ書き残しているけれど、それは明日にでも書くとして
今日は表題の「ノブレス・オブリージュ」について書いてみよう。
意味は「高貴なる義務」という意味なんだけど、
簡単にいえば、恵まれた境遇に生れた人間は恵まれない境遇に生れた人間に対して為すべき義務があることを端的に言うとこうなるらしい。
今朝先輩に借りた田坂広志の「未来を拓く君たちへ」という本でそう綴られている。
これを読んだ時、イスラム教の「喜捨」の考え方に似ているのかもと思った。
誤解を恐れずに言うならば「喜捨」とはお恵みだ。
昔Karimとモロッコの街を歩いていた時のこと。
Karimは恵まれない人を見かける度にこの「喜捨」を行っていた。
僕が「偉いねー」と言うとKarimは「この喜捨は相手のためじゃなく自分のためなんだよ」と。
恵まれた環境に育った人間は、生まれながらにして恵まれない環境に育った人間を守る義務があり
この義務を果たす機会が多ければ多いほど幸せになれると信じている。
だから僕は進んで喜捨をするんだよ、と。
この出来事は人生の中でTop3に入る衝撃だった。
僕らの言う「義務」ってどちらかというと窮屈な印象でマイナスなイメージしかないけれど
Karimにとっては「義務」はむしろ生きる源泉になっているらしい。
僕らは金持ちとか地位とか容姿と言った、どちらかというと絶対的な指標を重視する傾向にある文化で育った。
だから、恵まれた環境に育った人間は何の努力もしなくてもある程度のアドバンスを得ることができるし、
逆に、恵まれない環境に育った人間は死ぬほど努力しないと這い上がれないし、下手すると存在すら否定される可能性がある。
けど、彼らは違う。
生れた環境を相対基準として、そこからどれだけ自身が努力し成長したかが重要視される。
お金持ちもカッコいい人も地位の高い人も、それはあくまで一種の役割であってただそれだけのことなのだという。
この一件以来、僕は何事にもチャレンジするようになった。
失敗を恐れて何もしない、与えられた機会を無駄にする。
これは僕に与えられた義務を果たさないことと同義だ。
日本と言う恵まれた国に五体満足で生れ親の躾と教育のおかげで今の自分がある。
確かにほんのちょっぴり努力したし、少しは自分の与えられた義務は果たしているとは思うけど、
ノブレス・オブリージュにはほど遠い。
せめて、世界中の途上国の人達が努力している分と同じくらいは僕も努力しよう。
チャンスが与えられるのを待っているのではなく自分からそのチャンスを取りに行こう。
たぶんこれが今の僕にできるNoblesse Obligeだ。
今日は表題の「ノブレス・オブリージュ」について書いてみよう。
意味は「高貴なる義務」という意味なんだけど、
簡単にいえば、恵まれた境遇に生れた人間は恵まれない境遇に生れた人間に対して為すべき義務があることを端的に言うとこうなるらしい。
今朝先輩に借りた田坂広志の「未来を拓く君たちへ」という本でそう綴られている。
これを読んだ時、イスラム教の「喜捨」の考え方に似ているのかもと思った。
誤解を恐れずに言うならば「喜捨」とはお恵みだ。
昔Karimとモロッコの街を歩いていた時のこと。
Karimは恵まれない人を見かける度にこの「喜捨」を行っていた。
僕が「偉いねー」と言うとKarimは「この喜捨は相手のためじゃなく自分のためなんだよ」と。
恵まれた環境に育った人間は、生まれながらにして恵まれない環境に育った人間を守る義務があり
この義務を果たす機会が多ければ多いほど幸せになれると信じている。
だから僕は進んで喜捨をするんだよ、と。
この出来事は人生の中でTop3に入る衝撃だった。
僕らの言う「義務」ってどちらかというと窮屈な印象でマイナスなイメージしかないけれど
Karimにとっては「義務」はむしろ生きる源泉になっているらしい。
僕らは金持ちとか地位とか容姿と言った、どちらかというと絶対的な指標を重視する傾向にある文化で育った。
だから、恵まれた環境に育った人間は何の努力もしなくてもある程度のアドバンスを得ることができるし、
逆に、恵まれない環境に育った人間は死ぬほど努力しないと這い上がれないし、下手すると存在すら否定される可能性がある。
けど、彼らは違う。
生れた環境を相対基準として、そこからどれだけ自身が努力し成長したかが重要視される。
お金持ちもカッコいい人も地位の高い人も、それはあくまで一種の役割であってただそれだけのことなのだという。
この一件以来、僕は何事にもチャレンジするようになった。
失敗を恐れて何もしない、与えられた機会を無駄にする。
これは僕に与えられた義務を果たさないことと同義だ。
日本と言う恵まれた国に五体満足で生れ親の躾と教育のおかげで今の自分がある。
確かにほんのちょっぴり努力したし、少しは自分の与えられた義務は果たしているとは思うけど、
ノブレス・オブリージュにはほど遠い。
せめて、世界中の途上国の人達が努力している分と同じくらいは僕も努力しよう。
チャンスが与えられるのを待っているのではなく自分からそのチャンスを取りに行こう。
たぶんこれが今の僕にできるNoblesse Obligeだ。
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